太平洋戦争は、開戦に至るまでの経緯はともかく、直接的な動機は米英を中心とする連合国のわが国に対する経済封鎖、なかでもその殆どを米国に依存していた石油が、米国の 「対日石油全面禁輸」 によって確保出来なくなったことが、わが国が開戦に踏み切った最大の要因であった。
したがって、資源のないわが国が開戦にあたってとった基本方針は、南方の資源地帯を占領し、そこから戦争遂行と国民生活に必要な石油、鉄鋼、非鉄金属、ゴム、ボーキサイトなどを確保するというものであった。
開戦と同時に日本軍は、真珠湾の奇襲攻撃と同時に南方地域に進出その戦域は、西南太平洋全域におよび北はアリューシャン、東はミッドウェー、南はフィジー諸島を結んだ広大なものとなっていった。
そして、この戦いを左右するカギは、いつにかかって海上輸送の確保にあった。その意味から太平洋戦争は、世界戦史に例を見ない大海洋作戦であった。
しかし、その結果は、わが国商船隊の壊滅とともに日本の生命線は絶たれ、敗戦を迎えた。
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開戦にあたってわが国の商船は総べて 「戦時海運管理令」 によって、一元的に管理された。 |
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保有船腹を軍の作戦行動と民需輸送にどう配分するかは、開戦に踏み切る前の重要課題であった。
現有船腹でも、果たして海洋作戦が主力となるこの戦争に対処できるのかと言う不安があった中で、船舶を作戦と民需にどう振り分けるかは国家としての判断が問われた。結局、軍の強い発言力でそれぞれ2分の1 (300万トン) ずつの配分となった。 ただし、緒戦が完了すれば、軍の徴用船の一部を民需に回すことで合意ができた。 |
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開戦後の船舶の被害は、緒戦の優勢であった一時期こそ僅かであったが、昭和17年6月、ミッドウェー海戦で米軍 (連合軍) に敗北し、制空権、制海権を奪われ後退に転じてからは、敵の潜水艦や航空機の攻撃による喪失は予想をはるかに上回るものとなっていった。
開戦に踏み切るかどうかを判断する政府首脳会議で、敵の攻撃による船舶の被害をどの程度に見るかが重要な議論となった。
その時海軍が提出した船舶の喪失は、約年60万トンであった。これは確たる根拠のない、辻つま合せのもので、一説には第1次世界大戦の英国商船の被害を参考にしたものであったと言われている。次の表は、各年度毎の喪失量を示したものである。 |
各年度の船舶喪失量 (機帆船、漁船は除く )
年度 |
隻数 |
船腹量 |
昭和16年 |
9隻 |
5万総トン |
昭和17年 |
204隻 |
89万総トン |
昭和18年 |
426隻 |
167万総トン |
昭和19年 |
1,009隻 |
369万総トン |
昭和20年 |
746隻 |
172万総トン |
合計 |
2,394隻 |
802万総トン |
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ここに至って初めて軍は、海上輸送の重大さを認識し、海軍は輸送船護衛強化策として昭和18年11月 「海上護衛司令部」 を設け、海防艦の緊急建造に乗り出した。
また、陸軍は宇品の暁部隊で徴用船護衛のため、船舶砲兵隊の強化に乗り出した。しかし、これ等の諸対策は既に手遅れで、輸送船の喪失を食い止めることは出来なかった。 |
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喪失商船の補充として、陸海軍ともに小型の機帆船の徴用や大量建造を行い、漁船も輸送のために徴用した。これ等の船舶も商船同様その殆どが壊滅した。 |
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漁船については、開戦と同時に洋上監視を目的として 「特設艦視艇」 として400隻をこえる船が海軍によって徴用された。
昭和17年4月18日、米空母からドーリットル指揮によるB25中型爆撃機の東京初空襲をいち早く通報したのは、徴用漁船第23日東丸であった。この船は、海軍司令部に6通の敵情報を送った後、30分後に敵機により撃沈され全員が戦死した。 |
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商船について沈没原因を数字で見ると、第1が潜水艦の魚雷攻撃によるもので、1,153隻これは総トン数で約60%、第2が空爆によるもので902隻、次に触雷が250隻、砲撃その他が89隻となっており、わが国の海上輸送は潜水艦の雷撃により破壊され、空爆によって止めを刺されたとも言える。 |
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