〇 戦史に残る船員と輸送船の悲劇
 これまで述べてきたように、太平洋戦争では多くの船員をはじめ船舶が犠牲となったが、その中には戦史に残る悲惨な数多い記録がある。
 ここでは、そのいくつかを紹介する。

開戦第1号の犠牲となった船舶は、三井船舶の淡路山丸である。
昭和16年12月8日、陸軍は26隻の徴用船でマレー半島 (8地点) への上陸作戦を強行した。作戦は、無血上陸に成功したが、コタバル上陸作戦に参加した淡路山丸は、英空軍の攻撃を受けて撃沈され、船員1人が犠牲となった。
ポートモレスビー敵航空基地攻略のための、ニューギニア作戦は、昭和17年3月から1年におよぶ熾烈を極める戦いとなった。
この作戦では、上陸部隊の増援、補給に数次にわたって輸送船団が編成され、強行輸送が行われた。
しかし、敵の反撃は激しく、多くの輸送船が撃沈され船員が犠牲となり、ついに作戦は目的を達することなく中止された。この戦いは「ダンピール海峡の悲劇」として伝えられている。
昭和17年8月から7ヶ月におよんだガダルカナル島の奪回作戦は、ソロモン群島方面の制空・制海権を確保するために彼我の死闘が展開された、まさに太平洋戦争の天王山であった。
この作戦もその中心は、上陸部隊への増援、補給であった。
そのため、この輸送作戦には、わが国が誇る高速輸送船で船団が編成され、2回にわたる強行輸送が実施された。しかし、敵の反攻は、とくに航空機によって熾烈を極め、その多くが目的を達することなく撃沈された。
なかでも、かろうじてガ島に着いた輸送船は、兵員等の揚陸のため強行擱座を命じられ、船員は船を捨ててガ島に上陸した。上陸後の船員は、軍からも邪魔者扱いされ、飢餓とマラリアなどの悪疫に苦しみ、2月初めに強行された撤退作戦で帰還できた船員は、同島に上陸した267名の中で僅か27名にすぎなかった。
ガ島を制圧した米軍 (連合軍) は、本格的な大攻勢に移ってきたが、これを日本軍が比島でくい止めるために戦われた作戦が、レイテ島をめぐる決戦であった。
日本軍は、敵の上陸地点をミンダナオ島、ルソン島と考え、そこでこれに立ち向かう軍を配置していた。
しかし米軍は、この裏をかくかのように僅か2万の部隊しか配置していなかったレイテ島に、マッカーサー率いる10万の大軍をもって昭和19年10月20日上陸してきた。
レイテ島が決戦の場となった日本軍は、急遽レイテ島への兵員や武器、弾薬の輸送に迫られた。
ここに日本軍による、残された優秀商船を投入した9次にわたるレイテ特攻輸送作戦が始められた。この作戦は、海軍の主力艦による護衛のもとに行われたにもかかわらず、ガ島同様敵の猛烈な攻撃の中で、半数を超える輸送船は目的を達しないまま撃沈され、多くの船員が犠牲となった。
わが国と南方占領地域 (資源地帯) を結ぶシーレーンが、商船隊の壊滅によって次第に破壊されていく中で、とくに航空機・艦艇・車両などの燃料である油の枯渇は深刻となっていった。
そのため軍は、「油の一滴は血の一滴」 と喧伝して残された輸送船 (タンカー) を、死を賭しての輸送に従事させた。その名も 「神機突破油送隊」 と命名され、多くの乗組員と船舶がこの特攻油送で悲惨な最期を遂げていった。
このような中で、三菱海運の 「せりあ丸」 は、船舶の運航権を軍から本来の姿である船長に返してもらうことを強く求め、条件付ながらこれが認められた中で船長以下乗組員が一丸となって輸送に成功した。
本船は、昭和20年1月20日シンガポールからガソリン1万7千キロを積み、敵潜水艦の攻撃を避けるため、徹底した迂回接岸航法をとり、船長は食事も用便も仮眠も船橋ですませる、という臨戦体制で2月7日無事門司港に接岸した。
この成功で航空燃料1万7千キロを確保できた大本営や参謀本部は、欣喜雀躍したと言われている。
戦争後半から軍による徴用が急増していった機帆船や漁船も、商船同様敵の航空機や潜水艦の攻撃の中で悲惨な最期を遂げていった。
とくに、これ等の船は、南方に派遣されレイテ決戦などで、小回りのきく末端輸送手段として使われた。そのようなところから、これ等の船を 「海トラ」(海上トラック) と呼んでいた。
前にも触れたが、これ等の船はその被害を調査するための資料が少なく、今日、なお不詳の部分が多い。
防衛庁、防衛研修所、戦史室の 「戦史叢書」 にこれ等の船についての記述が随所にある。
その中の「豪北方面陸軍作戦史」の一部を紹介する。 「この頃 (昭和18年5月) 南方軍の配当船は18万トンであり、陸軍はこの頃さらに海トラ1万トン、機帆船、漁船2000隻を南方軍に増加した。」・・・ 「既述の増加船舶部隊のうち直接寄与できることになったのは、海上輸送第1、第2大隊であり、大隊は4個中隊編成、1個中隊は200トン級の機帆船漁船約100隻から成るものであった。この機帆船漁船は粗末な羅針盤をたよりに、ほとんど護衛を受けることなく内地から到着(アンポン)した」。
また、機帆船乗組員などの壮絶悲惨な戦いが僅かに記述されている 「日本郵船戦時戦史」 の一部を紹介したい。
当時、機帆船船団を高雄から見送った支店長の伊藤定治氏は 「戦争に参加した機帆船船員の死傷者は、8,300人と発表されているが実は1万人を超えていると推測されている。
(中略) 彼らの多くは空中から撃ちまくられる銃弾の無気味な音を船底に身を伏せながら聞いた。
まことに弱い運命のもとにおかれた彼らは進んで戦う何ものも与えられておらず、ただ小さな船のなかでじっと死の来るのを待っているばかりであった。
銃を取って敵と戦いながら死ぬのは易いが、敵に会っても、そのなすがままに死なねばならないことは、軍人以上の精神力を必要とした」 と述べている。